変化出来る者が生き残るのだ。
この状況下においてこの言葉の意味をしみじみと考える。
コロナウイルスが蔓延、緊急事態宣言、活動自粛要請、オンライン事業の活性化。
令和に入ってから、ちょちょちょーー!!令和ぶっ飛びすぎなんじゃないのーーー!!という気持ちもあるが、時代の節目なのかもしれない。
そして、あと1か月ほどで私が起業してから1年を迎えます。
最初は利益のことしか考えられなかったり。
集客も必至でしたり。
なのに利益が全然でないし。
焦った焦った。
数字に惑わされすぎていたし稼ぐこと=正義みたいになりすぎて本当の自分の気持ちを見失ないそうにもなった。
そんな時に、「まだ2か月でこんなに成果を残しているんだよ、すごいじゃん」と
焦りに焦って悩みに悩んでいた私に言葉をかけてくれた人がいた。
そしてふと、振り返ったら帰国してから2か月も経っていなかったことに気づいた。
それは自分の中で、「ああ、そうか」という忘れていた新しい観点だった。
人って焦っているとき、本当に視野が狭くなるものね。
そしてそこにふと柔らかく、寄り添って何気なく声をかけてくれる人の存在って本当に救われるのね。
本当に何気なく何とはなしにかけた言葉なのかもしれないけれど、ふわりと暖かく、肩の荷がスッと下りたような気がして嬉しくなった。
そして、そんな言葉をまさにその時聞きたかった。
「そうだ、よし。また、頑張れそう。」と、思わせてくれた。
こういう時に人はダメ出しをしがちだ。
「それだからダメ、出来ないのにはこんな理由がある」と言われても只々焦る焦る。
焦って苦しくなってもうやだ、もうやめたい、となる。
そして、こうした物質的概念がこんなにも人を苦しめるのかと。
何か、勉強にも似てるなあ。
点数、偏差値、5段階評価。
生徒に気を付けて接しているつもりでも、自分がいざそうなったときに接してくれる人がいると本当に救われるのだと。
そして苦しい時ほど、どん底の時ほど必ず学びがあるのだということもまた再確認した。
この社会の状況下で辛い人、苦しい人は今たくさんいるのだろう。
会社に行かずリモートで仕事をするという環境も当たり前になり、目まぐるしい時代の変化を感じずにはいられない。
ここで絶望して終わるか、その絶望を糧に工夫を重ね、信念をもって生きるか。
今までの社会システムが一気に崩れ、新しいものが生まれると心のどこかで感じている。
そしてそれに伴い人々も進化をする時期に来ている。
これからの社会、何が起こるか分からない。
太平洋戦争後のような世界になったら?
その時代は、都会にいる人たちが困窮に陥り、農家の人たちに闇値段で野菜などの食べ物を売買してもらっていたらしい。
その際、物々交換が行われていたそう。
昔の農家は威張っていたと聞いたことがある。
立場が上になるという認識を持つと威張るというのは昔の時代から今でも変わらないのか。
人間の性である。
終戦後、武器は偉い人が持っていき、闇市で売られてお金に変えられたそう。
「あの人たちは、今頃バチが当たっている」なんて、95歳の祖母が笑いながら言っていた。
いやいやもう生きてないっしょ、と思ったけど。
これからもしお金がただの紙っぺらになったら。
もしお金という概念が無くなったら。
本当に、真っさらになったとき。
この社会の今までの概念・在り方が終わりを迎えたとき。
1から再生するとき。
自分は何者になれるのか。
最も強い者が生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。
そして、共生、調和、愛の時代がやってくる。