私の母は、赤坂のホステスだった。
当時俳優を目指し、文学座で売れない俳優をしながらクラブで黒服のアルバイトをしている父と出会い、ホステスを辞め、結婚。
(因みに、当時一緒にアルバイトをしていた父の親友が、俳優の神保悟志さんである。)
そして、兄と私が生まれた。
以後、今まで専業主婦をしている。
母はホステス以前にもデパートでモデルをやっていたこともあり、昔の写真を見るととても綺麗だ。
綺麗なドレスや着物を着こなし、セットされた髪の毛と完璧なメイクアップで佇んでいる写真の中の母。
まさに、高級クラブで働く高嶺の花、といった感じ。
(私ももっと良いパーツを受け継ぎたかった。)
しかし、結婚をしてからその生活は一変、この人は本当に女を武器に仕事をしていたのかと思うくらい、私の知る母は写真でもたそれと見た目が変わっていた。
その為、私の中で母は綺麗だというイメージは、一切無い。
祖父が亡くなるまで、父方の祖父、祖母と一緒に住んでいた。
私の家はとにかく祖母が厳しく、嫁、姑関係が特にひどかった。
「あれだけの嫁いびりをする姑がいるだろうか」と、幼いながらに感じていた。
今考えると、家族仲が最悪だった。
傍から見ると一見素敵な家族に見えたかもしれないし、そういったことをよく言われた。
しかし、私はこの家族に生まれたことをずっと恨んでいた。
毎日喧嘩をしている父と母、幾度となく様子を見に、監視にくる祖父母、兄と私は模範的な子どもになることをどことなく強いられている気がしていた。
毎日、喧嘩の声で目を覚ましていた。
最悪なアラームだった。
祖母はとにかく完璧主義者、私の気に入らないことは一切してくれるな、という性格。
私の母はそれに応えようと、完璧にまで主婦業をこなしていた。
毎日の食事や洗濯、買い物、掃除はもちろん、庭の手入れに祖母の趣味である自家菜園の手伝い、兄と私の子育て。
それでも、毎日のように文句を、ひどい言葉をかけられていた。
買い物に行くにも、何をするにも、毎回何時に出て、何時に帰るか時間を知らせる。
知らせた時間に5分でも遅れるといつでも叱咤が飛んだ。
母と出かけると、決まってソワソワして時間を気にする母がいた。
いつもビクビクとしている母を見ていた。
写真ではあんなに綺麗にしていた髪の毛も、美容院で祖母の言う通りの髪形に。
ベリーショートのパーマ。
そのほうが、子育てするときに髪が邪魔にならず、楽だから。
バッチリと決まっていたメイクアップも、一切せず。
あんなに、綺麗なドレスや着物を着こなしていたのに、着る服も決められていた。
派手な格好をするなんて、みっともないから。
あんなに綺麗だった母が、みるみる痩せ細り、あの頃の写真には見る影もないほどになっていた。
かくいう私も、髪を染めることは禁止、ネイル禁止、ピアス禁止令を出されていたが。
一方、父は一切関与してこなかった。
父は一人っ子で、彼の母にガミガミ言われながら育ったことは容易に見当がつく。
その標的になりたくなかったのだろう。
時には、祖母と一緒に母を虐めた。
本人にその気がなかったとしても、私の目にははっきりとそう映っていた。
それでも母は、強かった。
何も言わずに、専業主婦として忍耐強く働いた。
三食、毎日欠かさずに手作りのご飯を作った。
今まで、手を抜いたことは一日たりとも無い。
ある日、夕飯時父を呼んだら、お箸の準備が出来ておらず、「準備できていないのに何で呼んだんだ、俺は食べない。」と言われている時もあった。
それなのに、いずれ食べるだろうと父の為に夕飯を準備している姿があった。
私なら、「は?じゃあ食べなくていいよ。こっちから願い下げじゃ!」と言いたいところなのに。
食事だけは大事だから、と言われて育った。
私は生まれてこの方冷凍食品というものをほぼ食べたことがないし、コンビニのお弁当も食べたことがない。
一時期はマックやコンビニに行くことに異様に憧れを抱いていた。(笑)
学校から帰ると手作りのお菓子が用意されていた。
お弁当は中学から高校3年生まで、欠かさず作ってくれた。
実は、社会人になってからも作ってくれていた。
兄と同時期に小学校3年生から通い始めた塾、日能研へ行くための送り迎えやピアノの送り迎えも毎回してくれた。
特に受験期になると、夜遅くに迎えに来る車に、夜食を用意して持ってきてくれた。
いつも、頬張りながら、無我夢中になって食べた。
兄の時も私の時も、受験内容を母も一緒に勉強をして教えてくれた。
(あの時の私は、全く集中力もやる気もなく、迷惑をかけたと思う。)
兄の時も、私の時も、一緒に公開模試の試験会場にも行った。
ピアノの練習も、「ここは違う!こうでしょ!」と口うるさくもいつも横で見てくれていた。
そんな時、夜、母がいなくなっていた。
みると、ベランダで小さく体育座りをして一人、泣いていた。
当時の私はその状況を理解も出来るわけもなく、理解をしたいとも思っておらず、普通ではないこの家族の状況が嫌で嫌でたまらなかった一心で、心無い言葉をかけた。
ひどく後悔をしている。
そして、私はその母の姿を一生忘れないと思う。
恥ずかしながら、私は家で手伝いということを一切してこなかった。
かく言う私も母を助けなかった一人でもあるのだ。
皿洗い、洗濯物、お風呂掃除、実は掃除機もかけたことがないし、洗濯機も回したことがない。
料理もしたことがなく、りんごの皮すら剥けなかった。
これらはアメリカで一人暮らしを始めた時、私が21歳になって始めて行ったことだ。
なぜなら、今まで母が全てをこなしてくれていたからである。
それでも私は母に、そして家族に恨みと怒りをぶつけていた。
母は忙しすぎて私たちと話す暇すらもなかったのだ。
それに対して、子どもだった私は「何で私のことを見てくれないの?」と母を長年攻め続けた。
体をすり減らしてまで、人生をかけて家族を支えてくれていたのに。
今になってようやくわかる。
遅すぎるかもしれないけれど。
文句ひとつも、悪口ひとつも言わずに完璧にまでに専業主婦をしてきた母。
いつも優しさと愛情を持って一生懸命だった母。
頭が上がらない。
一生超えられない存在なのではないかとすら思う。
専業主婦は立派な職業である。
一番身近で、生活の基準となる社会である家庭。
その社会を築き、心地の良い場所にし続けてきた母。
専業主婦は、偉大なる、社会貢献者なのである。
専業主婦は楽?
社会に出て働いていないから男性の方がステータスが上?
そんなことは決してない。
そのような風潮はあってはならない。
というか、ステータス云々、その考え方、古い。
私は、身近で、見てきた。
家庭という社会に貢献をし続ける、一人の強い女性を。
母、あっぱれ。
因みに今は、祖父が亡くなり、祖母は今年93歳、母が毎日面倒を見る側に。
なんと邪気が抜けたかのように小さく、かわいいおばあちゃんに変身した。
あの頃の剣幕と覇気はどこへ。
私はひそかに、母が祖母を浄化したのではないかと思っている。
ハウルの動く城のソフィと魔法を失った荒れ地の魔女のように。(笑)
完全に母の天下到来である。
母がいるからこそ、家族という社会が成り立っている。
今、やっと、言える。
まま、ありがとう。
ままの子どもで私は心から幸せだよ。
今日もお仕事、お疲れ様。
(もともとwomenfrontierで書いていたものを転載しています。日付は筆者が当該サイトで投稿した日に設定してあります。)